70年代の終わりにアメリカのセントルイスに住んでいた。通っていた小学校は全体の半分がスラム在住の黒人、四分の一が貧しい白人で、残りが(大学が近くにあったので)大学関係者の白人で、親が失業している家庭も多かった。私は全校でたった二人しかいない黄色人種のうちの一人。クラスメイトは同じアジア人だからという理由だけで、もう一人の中国人の男の子と私を「二人はできている」とからかった。まあ、そんなに気にはならなかったけど。

小学校二年生で日本から転校してきた英語が全くしゃべれない私に、担任はクラスで一番大人びた白人の女の子をお世話役としてあてがった。彼女はクラスで一番権力を持つポピュラー・グループのリーダーで、仲間は不良っぽい子が多く、ませたことをたくさん教えてくれ、楽しかった。彼女らの家に泊まりに行くと、親は経済的に厳しく子供を放任している感じで、夜11時から始まる『サタデー・ナイト・ライブ』を観て、流行りの音楽をたくさん聴かせてくれた。

学校では黒人と白人は完全に分かれて遊んでいた。黒人の子たちの色んなヘアースタイルや、ダブル・ダッチと呼ばれる曲芸のような大縄跳びで遊ぶ姿を見るのは楽しかった。ソウルのシングル・レコードを大量に持ち込んで、体育の時間に黒人の先生と一緒に踊るのを、私と白人の子たちは、ただぼーっと眺めていた。唯一イエローの女の子である私に黒人の子たちが声をかけることはほとんどなかったけど、「髪の色が同じ黒だね」と、嬉しそうに言ってくれたのを思い出す。

荒っぽい地域だったせいか、子供たちはしょっちゅう二手に分かれて大ゲンカしていて(英語の分からない私も、もちろん参戦w)、我が家で行われた泊りがけの誕生パーティも、翌朝には物を投げあうケンカで終了。一番激しかったのは、黒人たちのゲットーに住む数少ない白人の子と、黒人の子たちの間のケンカだ。貧しさから穴だらけの洋服を着た彼らが、「白い豚」「×ガー」など、人種差別用語を連発しながらやり合う姿を見て、同じネイバーフッドの人種間の争いほど、強烈なのだと悟った。

私には同じアパートメントに住む黒人の友達がいた。約束を守らずレイジーな彼女に少し嫌気がさしていたこともあり、件の誕生パーティの招待状を、彼女にだけ渡さなかった。普段「ニ×ロ」など差別用語を平気で口にする母はそれを知ると激怒して、私を友達の家に引っ張って行き、謝罪し招待状を渡させた。また、知り合いの運転でスラム街を車で走っていた時、荒れ果てた家ばかり並ぶ中に、綺麗に手入れされ、花が咲いている家が一軒だけあった。「黒人も家を綺麗にするんだね」と何気なく言った私を、知り合いはきつく叱った。子供は無邪気に差別をするから、まわりの大人は注意をしなくてはいけない。

しばらくして、「あの子とは遊んではいけない」とポピュラー・グループの友人に言われていた女の子と仲良くなった。後からその子の家はクリスマスにツリーを飾らないと知り、彼女がユダヤ人であることが分かった。英語も下手でイエローの私を所有物やペットのように思っていたポピュラー・グループは、ユダヤ人の子に私を取られると思ったのか、校庭でいつものような大ゲンカに発展。ユダヤ人の子が「あなたたちはこの子を支配下に置きたいだけでしょ」と怒鳴り、傍らで聞いていて「ずいぶん本質ついたこと言うな」と思った。

アメリカ滞在も後半になる頃、ボート・ピープルと呼ばれる難民の子供たちがたくさん転校してきた。急遽ESL(外国人のための英語クラス)ができ(そこはアメリカの素晴らしいところ)、私とその子たちは仲良くなった。親を失い辛い思いをしながら逃れてきた彼女たちは、いつも笑顔を絶やさず明るかった。何も持たない彼女たちにおもちゃの寄付をするのが白人の子たちの間で流行り、誰がよりいい人形をあげるか競う姿を見て、私は「なんだかなあ」と思った。ボート・ピープルの子たちは、ほどなくして養子として全米に散らばっていった。

大人になってから何度かアメリカに住み、アメリカで子育てもしたけど、国際色豊かなネイバーフッドに住んでも、経済的に恵まれた教育水準の高い場所では、差別は表面化しにくい。小学校低学年の頃にセントルイスの校庭で経験した人種間の様々なことは、差別や貧困について、色んなことを教えてくれた気がする。